2013年6月~8月、僕は現在エボラ出血熱が流行している、ギニア、シエラレオネ、リベリアにいました。
そして、3か国の全ての国で現地人のお宅にホームステイをさせていただきました。
ホームステイ先はもともと知っていた人ではなく、完全に現地に行ってから当日に「泊めてください!」とお願いした家庭でしたが、みんな本当に快く迎えてくれました。
あれから1年。
エボラ出血熱がアフリカならぬ世界中で話題となっています。
2014年8月8日、遂にWHO(世界保健機関)が非常事態宣言を発令しました。
エボラ出血熱が世界的に緊急事態になってしまいました。
現地の皆さんがどういう状況なのか本当に心配だ・・・。
ギニア、シエラレオネ、リベリアで出会った人達は本当に素晴らしい人たちでした。
今回のエボラ出血熱をキッカケで日本で有名になるという事にはなってしまいましたが、僕が現地でどのような体験したのかを書いていきます。
ギニア、シエラレオネ、リベリアの3か国での体験は本当に素晴らしいものでした。
ギニア コナクリ
ギニアの首都コナクリでは、たまた紹介してもらった現地の家庭にホームステイさせてもらいました。
お父さん、お母さん、娘、息子、子供たちの大家族。
お父さんはなぜか僕の事を「モモ!」と呼び、僕の本名を全く覚える気はないようでした(笑)
僕がコナクリで警察から賄賂攻撃を受けた時も、それ以降はどこに行くにも心配してくれ、本当にいい方たちでした。
ギニアの食事は正直イマイチでしたが、ここの家の家庭料理は本当に美味しくてビックリ!
どこの国でも家庭料理は偉大なり。
また、ギニアでは現地の音楽団の方たちを紹介してもらい、演奏会にも参加させていただきました。
踊りとジャンベ(アフリカの伝統的の太鼓)の演奏は、鳥肌ものでした。
演奏を観ながら日本では普段なかなかこういうのに触れる機会がないよな~。
自国の伝統的な演奏や踊りが日常にあるギニアの人たちが羨ましかったです。
シエラレオネ フリータウン
ギニアの首都コナクリからギュウギュウ詰めの乗り合いタクシーで約5時間掛かり、シエラレオネとの国境に到着。
しかしこの国境は現在エボラ出血熱拡大防止のため、封鎖されたそうです。
シエラレオネは僕が前から行ってみたかった国の一つだったのでとても楽しみにしていました。
10年前まで続いていたダイヤモンド内戦の話を是非聞いてみたいと思っていたのです。
そんな中、シエラレオネの首都、フリータウンの国立博物館に内戦の展示物を見に行くと、そこで働いている青年と仲良くなりました。
結局彼の家に2泊させてもらい、夜は一緒にビールを飲みながら、お互いの話をしました。
彼と話をしていて印象に残っているのはやっぱりシエラレオネのダイヤモンド戦争の事です。
あの内戦ではシエラレオネ国民全員が難民となったと聞いていましたが、彼も例外に漏れず、政府が管轄する地区に家族と避難をしたそうです。
彼自身に危険が及ぶようなことはなかったそうですが、あの経験はもうしたくないと言っていました。
「でもそれもだいぶ昔の話だよ。これからは発展していくんだ!」と今では彼らも国自体も元気になってきていると言っていました。
シエラレオネ マトゥルジョング
シエラレオネに行く前に僕が唯一知っていたシエラレオネ人、作家のイシメール・ベア氏の生まれ故郷がマトゥルジョングです。
イシメール・ベア氏はダイヤモンド内戦時代に当時まだ12歳の時に少年兵として、実際に戦闘に出掛けたことを著書に記しています。
イシメール・ベア氏の著書→「戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった」
この本は是非オススメ。
彼が本を出版してから既に10年以上経っている今ではマトゥルジョングは平和になり、穏やかな人達で溢れていました。
ちなみにかなりマイナーな村ではあるものの、現地に住むシエラレオネ人に「日本人なんて30年ぶりに会ったよ!」とビックリされました(笑)
僕はそんな穏やかな村の酔っぱらいのおっちゃんに絡まれて、そのままおっちゃんの家に泊まらせてもらうことになりました。
彼の家には奥さんが3人、子供が15人ともうなんだかすごいことになってたけど、本当によくしてもらいました。
そして、その酔っぱらいのおっちゃんコンベさんはなんとイシメール・ベア氏の小学校時代の先生でした。
コンベさんに連れられ、僕たちはイシメール・ベア氏の実のおばあさんの家をを訪ねました。(彼の父母、兄は戦争で亡くなってしまったので数少ない肉親)
彼女はかなり高齢の方でしたが、それでもしっかりと話をしてくれました。
コンベさんは今でも学校の先生を続けていて、午前中だけ仕事をして午後や家族と過ごしたり、仲間とビールを飲んだりと僕から見たらとても幸せそうな生活をしていました。
「日本人はみんなお金を沢山持ってるんだろ?」の問いに、「いやいやいや、確かにそうかもしれないけど、ほとんどの日本人はコンベさんみたいに毎日のように外でビール飲んだりなんてできないよ。それに子供を育てるのはお金が掛かるといって子どもを作らない人たちも多いよ。」
というと、「なんで?なんでだ??お金があっても子供がいない人生なんて・・・。」ととても不思議そうにしていたのが印象的でした。
そして、彼はダイヤモンド戦争で実のお父さんを亡くされています。
約15年前、シエラレオネの反政府軍(RUF)がマトゥルジョング村に来て、村を焼き払い、一般市民を虐殺した時に被害にあったのです。
彼自身は子供を抱えて走って逃げ続け、何とか助かりましたが、本当に辛い経験だったと言っていました。
僕は何があろうと絶対に戦争は反対派です。
そしてどの世界で会った人も戦争で幸せになったという人には出会ったことがありません。
リベリア モンロビア
マトゥルジョングからリベリアの首都モンロビアへ到着した瞬間。
乗り合いタクシーの外に出て体を伸ばそうとした瞬間、いきなり隣に座ってたのおばっちゃんが僕の腕をつかんできました。
彼女はすごい勢いで怒っていて、「アンタ何考えてんの!?こんなとこで降りたらあんたみたいなのなんてすぐに殺されてお金とパスポート盗まれて終わりよ!」と言われました。
モンロビアのホテルは高いから絶対に泊まらないと決めていた僕は、その手を掴んできたおばちゃんとその家族に頼んで家に泊めさせてくれるようお願いすると、意外と簡単に「いいよ~うちはものすごい快適な家なのよ!」と承諾してくれました。
翌日は朝からモンロビアの町に出てみると聞いていたほど治安は悪くなく、むしろなぜか現地のOLのお姉さんにタクシー代を奢ってもらったりとアフリカで初めての体験をしたり驚きでした。
彼女の家には3人子供がいて、かなり仲良くなり、結局4日間もお世話になってしまいました。
ごはん代ぐらいは払おうとお金を渡そうとしましたが、結局最後まで受け取ってはくれませんでした。
連絡先を交換しようとしたら、「あなたと私たちにまた縁があれば、そのうちまた会えるわよ!」と言ってたのがとても印象的でかっこよかった。
このようにギニア・シエラレオネ・リベリアの3ヶ国では本当に色々な方にお世話になりました。
冒頭にも書きましたが、ギニア、シエラレオネ、リベリアは今はエボラ出血熱で有名にはなっていますが、それだけではなく、現地にいる人たちは本当に素晴らしい人たちです。
今彼らがどのようにしているのか、僕にはわかりません。
もしかしたらエボラ出血熱を怖がっているのかもしれないし、もしかしたら楽観的にいつも通り生活しているのかもしれない。
でも早くみんなが安心して生活できる世界になってほしいと思う。
彼らの国で本当にお世話になったのに、今僕は何をすることもできない。
僕が伝えたかったのは彼らは特別でもなく、貧しくもなく、ごく一般的に生活をしているということです。
村で裸で走り回っている子供もいれば、パソコンや携帯を持って働いているビジネスマンもいます。
アフリカというと貧しいというイメージがありますが、実際はみんなちゃんと自立した生活をしています。
お金はないけど、食べるものさえなくて困っているという人はこの地域のほとんどいません。
なので、そんな場所で今回のような感染症が流行していることに驚いています。
早くエボラ出血熱が終結することを願うばかりです。
現地の家に泊まらせてもらった、ギニア人家庭、シエラレオネ人家庭、リベリア人家庭には本当にお世話になりました。
ありがとう。